「転の声」尾崎世界観著/文藝春秋(選者:稲垣えみ子)

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脳内で起きている現実の闇深さに愕然とする

「転の声」尾崎世界観著/文藝春秋

 ネットが社会のインフラになったのはせいぜい十数年前と思うが、以来、世界は根っこからひっくり返ったように思う。今やそれぞれの人生の大半の出来事が、それぞれの「脳の中」で起きるようになった。どういうことかというと、例えば電車の中で全員がスマホを見てる光景はもはや当たり前なわけだが、これってつまり、同じ電車に揺られていても今ここには誰もいないってことだ。全員が全く違う世界を生きている。だから目の前の世界に一生懸命目を凝らしても、この世で今何が起きているのかは皆目わからない。

 な、なんて不気味な世の中なんだ~! と、昭和のおばさんは背筋を凍らせながら、最も理解困難な若い世代(自分より)が書いた小説を読む。それが今の私にとって現代を理解する唯一の手段である。

 ってことで、話題になっている本書を手に取った。テーマは「転売」とのことで、超不活発な消費生活を送る私には全然ピンと来なかったがそれは一瞬。たちまちこの世界が内包する闇の深さに愕然とする。

 主人公はそこそこ売れているがいまひとつパッとしないバンドマンで、絶えずネットで自らの評価を調べ一喜一憂せずにはいられない。で、何を調べているかというとライブチケットの転売価格なのだ。チケットを転売目的で買い占める行為はファンの不利益になるので、主人公も表向きは転売反対の立場だが、現実には転売はファンの間で普通に行われ、プレミア価格がどこまでつくかがアーティストの価値を決めているからである。思うようにプレミアがつかない現実に焦りを募らせた主人公は、大物転売屋に「俺を転売してくれませんか」と直談判し、そこから話はとんでもない方向へ──。

 実は私、この話があまりにも「ありそうなこと」なので(著者はバンドマンである)、どこまでが現実でどこからがフィクションなのかが全くわからず読後いろいろと調べたが、正直いまだにわからない。それほど、この小説の中の人々の脳内で起きていることと、今われらの脳内で起きている現実はスムーズに地続きで、ゆえにこの小説の恐ろしい結末は近い将来ホントにそうなっても全くおかしくないし、いやもしかすると今すでに似たようなことになっていて、でも、それが私には見えていないだけなのかもと思えてくる。つまりは私はこの本を読んで、今自分が立っている地点を、読む前よりずっとクリアに理解することができた。それは実にヤバい地点だったが、それがゆえに知っておいて良かったと心から思わずにはいられない。 ★★★

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