第3話:消えてなくなる
当事者が初めて書いた妖しい業界の舞台裏 見栄と欲望、光と闇
アイテム:3ct Dカラー エクセレント他、カルティエパンテール等多数
お客様:藤本巌 様
◇ ◇ ◇
カスミのあのバツの悪そうな表情はあれが最初で最後かもしれない。
真夏のうだるような暑さの中、人で溢れる歩行者天国を回避すべく銀座のメイン通りから一本裏に入った。イルカだかクジラだかの幻想的な絵を描くアーティストの作品を取り扱うギャラリ-の軒先で行きかう人々を招じるべく、タイトな衣服に身を包んだ数人の女性がビラを配っている。
その中に見覚えのある姿を見つけた。
カスミか?
そう、やっぱりカスミだ。
年齢の割には貫禄すら漂わせていたあの威風堂々たるカスミが不似合いな愛想笑いを浮べせっせとビラを差し出している。
懐かしさと、違和感と憐憫と、複数の感情がないまぜになりながら、しばらく、一定距離を保ちその場に佇み、「らしくない」カスミを眺めていた。
しかし、やはり懐かしい。
カスミは私がこの仕事を始めるきっかけを与えてくれた人物である。
こちらに向きを変えたカスミの視線が私を捉え、しばし凍て付いた。
慌てた感じで踵を返すとギャラリー内に引っ込んでしまい、それきり表に出てくることはなかった。
見られたくない姿を見られてしまった故か。
それから一体どれくらいの年月が経ってからだろうか。
会社の電話が鳴り、私が受話器を取った。
「タケシ? わたし」
「ん? カスミか?」
「そうよ」
声の張りに数年前の銀座のバツの悪さは微塵も感じられない。
「どうした? 突然」
「タケシにね、婚約指輪を作ってもらいたいの」
「ほぉ。それはおめでとうございます。どうやって話を進める?」
「一度お会いして打ち合わせをしましょう」
翌々日に会うことになり、カスミはお互いの分かりやすい場所として、私の事務所近く、2車線幹線道路の路肩を待ち合わせ場所に指定してきた。
伝えられた場所に行くと純白の大型のメルセデスが停まっている。
車を降り、一旦歩道側に回り、運転席側のウィンドウを軽く叩く。
運転席に身を沈めるカスミは、頭に大きいサングラス、肩には純白の毛皮。
そうそう、カスミはこうでなくちゃ、と思った。
「タケシ、私に付いてきて」
「分かった」
車に戻り、追いかけるようにして向かった先は荒木町の寿司店だった。
まだ開店前なのか、客はカウンターにどっかりと腰を据える、その巨漢だけだった。
「タケシ、こちらガンちゃん」と、私にシンプルに紹介した。
人間を上品か下品かのみに大別するのであれば下品、美しいか美しくないかで大別するのであれば間違いなく美しくない男は透かし模様の入った和紙に太い筆文字で「藤本 巌」と書かれた名刺を私に差し出したので、私も慌てて返礼した。
「カスミに婚約指輪を作ってあげたいんです」
名刺の文字と違わぬ野太い声で、それでいながら物腰は意外に丁寧だった。
そして(こんなに札束がいっぺんに入る財布があるのか?)と思うような分厚い札入れから帯封を3つ取り出してカウンターにボンッと置いた。
カスミも誇らしげな表情を浮かべている。
(カスミ、これでいいのか?)
と私はカスミに視線を送ったが、一瞬で跳ね返された。
(そうそう、これはビジネスだ。有難き高額注文だ)
「今、領収証の持ち合わせがなくて、お現金をお預かりする準備が出来ておりません」
「カタいこと言わなくていいですよ。この範囲内でカスミに作ってやってください」
これで商談は成立である。