メガネ製造の機械技術を伝習した日本人職人 ウィーン万博参加がきっかけ

公開日: 更新日:

 江戸時代に普及したメガネですが、その製造技術は職人の親方から弟子に口伝えされるもので、詳しい記録はあまり残っていません。辛うじて書かれているのは、1690年に蒔絵師源三郎の「人倫訓蒙図彙」、1713年に大坂の医師・寺島良安がまとめた「和漢三才図会」、1732年に発刊された「万金産業袋」があります。三宅也来という京都人の編によるもので、比較的詳しくメガネの製法が書かれています。

 江戸時代に特別な職人が作っていたメガネが、西洋の機械で作られるきっかけになったのは、1873年に明治政府が初めて参加したウィーン万博です。それ以前に日本が万博に参加したのは1862年のロンドン万博、1867年のパリ万博ですが、前者は駐日英国公使オールコックが自身で収集した日本の品物を陳列したもので、後者は徳川幕府のほか薩摩藩なども参加しており、政府が一体で参加したのはウィーン万博が初めてでした。明治政府は「殖産興業」政策の一環として、技術輸入・技術伝習を目的のひとつに政府を挙げて参加したのです。

 このとき、メガネの製造技術の伝習を目的に政府の後押しで参加したのが朝倉松五郎という職人です。9歳で玉細工師の浅井伊三郎へ弟子入り、16歳で四谷伝馬町の朝倉家の養子となった松五郎は博覧会事務局から博覧会出品作品となる水晶その他細工類の製造を任されます。博覧会にも派遣され、そのままウィーンなどでのメガネ製造技術の習得を命じられますが、途中で病気となり、慌ただしくメガネ製造の機械などを注文するなどして帰国。日本で西洋機械によるメガネの製造に取り掛かるのです。

 ちなみに現在、東京・四谷に本店を構える「㈱朝倉メガネ」は松五郎が創始者のメガネ店です。

(メガネウオッチャー・榎本卓生)

■関連キーワード

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    ドジャース佐々木朗希に向けられる“疑いの目”…逃げ癖ついたロッテ時代はチーム内で信頼されず

  2. 2

    ドジャース佐々木朗希の離脱は「オオカミ少年」の自業自得…ロッテ時代から繰り返した悪癖のツケ

  3. 3

    注目集まる「キャスター」後の永野芽郁の俳優人生…テレビ局が起用しづらい「業界内の暗黙ルール」とは

  4. 4

    柳田悠岐の戦線復帰に球団内外で「微妙な温度差」…ソフトBは決して歓迎ムードだけじゃない

  5. 5

    女子学院から東大文Ⅲに進んだ膳場貴子が“進振り”で医学部を目指したナゾ

  1. 6

    大阪万博“唯一の目玉”水上ショーもはや再開不能…レジオネラ菌が指針値の20倍から約50倍に!

  2. 7

    ローラの「田植え」素足だけでないもう1つのトバッチリ…“パソナ案件”ジローラモと同列扱いに

  3. 8

    ヤクルト高津監督「途中休養Xデー」が話題だが…球団関係者から聞こえる「意外な展望」

  4. 9

    “貧弱”佐々木朗希は今季絶望まである…右肩痛は原因不明でお手上げ、引退に追い込まれるケースも

  5. 10

    備蓄米報道でも連日登場…スーパー「アキダイ」はなぜテレビ局から重宝される?