協和発酵キリン 宮本昌志社長<4>一本のリポートで日本帰国
突如アメリカ勤務を命じられ、1998年3月、サンディエゴに家族で引っ越した宮本昌志。北米で医薬関連の情報収集や提携先の探索を行うキリンビールの子会社に出向する。38歳になっていて、任期は3年の予定だった。
現地には、やがて医薬事業を牽引することとなる実力者が2人いた。
「頭の回転が速い2人に挟まれた僕は、ただボーッとしていました」
苦手だった英語を嫌いではなくなったものの、新薬につながるネタを開拓するという本来の仕事では成果を得られない。そのまま2年が経過した時、何げなく一本のリポートを本社に送る。
内容は、「医薬部門の情報システムは、アメリカの製薬会社のそれと比べてかなり劣っている。開発力を高めるために高度な専用システムに刷新すべき」、という提言だった。現場を動き回るうちに気づいたことだった。すると、本社の偉い人の目に留まる。偉い人はビールの生産部門から医薬の企画部門のトップになったばかり。名前は山角健(後に協和発酵キリン副社長)。