1999年に派遣労働の対象を自由化…自民党は「企業経営者の味方」だと国会答弁ではっきり
非正規への追い込み30年(2)
「雇用柔軟型」という言葉が出てきたのは1995年。日本経営者団体連盟(2002年、経団連に統合)のリポート「新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策」の中だった。プラザ合意(85年)で円高が進み、その後はバブル経済が崩壊。「失われた10年」だと危機感を募らせていた。
99年には、経団連が「わが国産業の競争力強化に向けた第1次提言」を発表した。雇用分野がターゲットとなる。
「企業内に必要以上に労働力を抱えたまま事業転換を図るという、これまで通りの対応では、世界的な大競争には打ち勝てない。雇用分野においても現下の厳しい情勢に即した対応が必要である」
経団連の提言に呼応するように、この年、労働者派遣法が改定された。それまでは派遣対象業務を、通訳や研究開発、アナウンサーなど専門職の26業務に限っていたが、原則自由化したのだ。
自民党政権は労働者の側ではなく、企業経営者の味方ではないのか。そのことをはっきりとさせる国会でのやりとりが、99年6月10日の参院労働・社会政策委員会であった。