故障で挫折した本格派右腕・川崎憲次郎を「技巧派の見本」として再生させたのは…
もちろん、川崎も常にそんな態度で先輩選手と接していたわけではありません。「おい!」と言えば、シャキッとする。僕も冗談半分で叱ったことが何度かあります。
前回のこの連載で取り上げたギャオス内藤を彷彿とさせますが、内藤は何も気にせずにどんどん突き進むタイプ。川崎はそんな内藤の後ろについて、「怒られるまでやっちゃえ」という性格でした。この2人はよほどウマが合ったらしく、「ギャオス隊長、川崎隊員」という関係で、よく遊びに行っていましたよ。
個性派揃いだった当時のヤクルト選手はよく遊び、よく練習しました。川崎もそう。大分の津久見高校から1988年のドラフトで入団した当初は、150キロのストレートを投げる本格派右腕。高卒1年目から4勝、12勝、14勝、10勝と順調に成長しましたが、その後の数年間はヒジを痛めて思うような成績が挙げられませんでした。普段はおちゃらけていても、野球に関しては人一倍マジメな男です。相当苦しみ、悩んだと思いますよ。
そんな川崎に「再生」のきっかけを与えたのが野村克也監督です。かねて投手陣には「シュートを覚えろ」と言っていたようですが、なかなか浸透させることができなかった。でも、ケガを抱え、もがいていた川崎にはそれが響いたんでしょう。改めて監督にシュートの習得を勧められると、97年に復活。98年は17勝(10敗、防御率3.04)で最多勝と沢村賞を獲得しました。この年は9完投を記録。まさに打たせて取る、技巧派の見本のような投手に変身したのには驚きました。