大船渡高時代の佐々木朗希は「投げられません」と監督に直訴したと聞く…2018年岩手大会の一幕
中尾孝義氏による「革命捕手が見たプロ野球」(第46回=2022年)を再公開
日刊ゲンダイではこれまで、多くの球界OB、関係者による回顧録や交遊録を連載してきた。
当事者として直接接してきたからこそ語れる、あの大物選手、有名選手の知られざる素顔や人となり。当時の空気感や人間関係が、ありありと浮かび上がる。今回はあの佐々木朗希の大船渡高時代について綴られた、中尾孝義氏による「革命捕手が見たプロ野球」(第46回=2022年)を再公開。年齢、肩書などは当時のまま。
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東北大会切符をかけた2018年秋の岩手大会の3位決定戦で、私が監督を務める専大北上は大船渡と当たることになった。
最速157キロのエース佐々木朗希(現ロッテ)対策として体感150キロの高速打撃マシンを打ち込んで臨んだが、前日の盛岡大付との準決勝で166球を投げていることもあり、先発してこなかった。
後で知ったことだが、股関節痛などを抱え、試合前に国保陽平監督に「投げられません」と直訴したのだという。佐々木はこの試合で三塁コーチを務めていた。
専大北上は三回に4点を先制したが、四回に1点、五回に一挙4点を奪われ逆転され、七回までに7-10とされた。すると八回、佐々木がブルペンへ向かった。専大北上が9-10と1点差に追い上げげた無死二塁の場面でついにマウンドへ。専大北上ベンチは「ヨッシャー」と喜んだ。意気消沈してもおかしくないところだが、逆転できるかもしれないと思った。
これも後で知ったが、本当はリードした最終回の1イニングを締める予定だったそうだ。しかし、大船渡は守備のミスが重なり、流れを止めるため、前倒しでエースが投入された。1死後、次打者が同点適時打。なおも2連打で1死満塁とすると、押し出し四球で専大北上が11-10と勝ち越しに成功した。
九回表に佐々木に打順が回る。打者としても最も警戒していた。私は捕手に「甘い真っすぐだけはダメだぞ」と念を押した。それなのに、ど真ん中に直球が吸い込まれた。ジャストミートされた打球は左翼スタンドへ一直線。やられた。同点本塁打かと覚悟した打球は、逆風に戻され、フェンス手前で失速。レフトのグラブに収まった。結果オーライだが、こういうところが専大北上の詰めの甘さだと感じた。佐々木の最速は151キロだったが、やはり本調子ではなかった。もし完調なら攻略できなかっただろう。
東北大会は1回戦こそ秋田商(秋田3位)に6-1で勝利したものの、2回戦で八戸学院光星(青森1位)に2-9の八回コールド負け。翌春のセンバツ甲子園への道は断たれた。八戸学院光星はそのまま東北を制し、センバツ出場を決めた。
東北全体では仙台育英(宮城)が頂点に君臨し、八戸学院光星、花巻東、盛岡大付の岩手勢、聖光学院(福島)などが続く。専大北上はまだ東北の2枠に入る力はなかったと痛感したが、私が監督を務めた期間では、最も甲子園出場に接近した瞬間だった。
▽なかお・たかよし 1956年2月16日、兵庫・北条町(現・加西市)生まれ。滝川高-専大-プリンスホテル。80年ドラフト1位で中日入団。1年目から正捕手として82年のリーグ優勝に貢献してMVP。88年オフに交換トレードで巨人へ。89年に日本一。92年に移籍した西武で93年に現役引退。3球団で日本シリーズに出場。走攻守三拍子揃ったプレースタイルで、「捕手の概念を覆した捕手」と言われた。引退後は西武、オリックス、阪神などでコーチなどを歴任。2009年から16年まで阪神スカウト。17年3月に専大北上高監督に就任。18年春、秋に東北大会に進出。19年11月に退任した。


















