北の富士さんは私の恩人です 2人で作り上げた「明るく楽しい居酒屋トーク」〈北の富士さんと私〉#2
──吉田さんが初めて大相撲中継に関わったのは、入局4年後の1987年の秋場所。
私は、本当にひょんなことから相撲アナウンサーになったんです。それまでさして相撲に詳しかったわけではない。
NHKの場合、相撲アナになると皆まず、ラジオ中継のディレクター(PD)につきます。実況アナの脇に座わってインカムをつけて、渋谷の放送センターなど各所と連絡したり、実況に間違いがないかチェックしたりといった「サイド業務」を担当する。これで大相撲放送の現場を徐々に知っていくわけです。同時に、取組を目の当たりにして大相撲を体感し、興行の一日の流れや仕組みも覚える。まさに育成の場です。
私の相撲アナ人生も87年秋場所、両国国技館でこのPDの席に着いて始まりました。千代の富士、北勝海、大乃国、そして双羽黒の4横綱時代でした。
──翌88年名古屋場所で、幕下の実況とリポーターを担当して、中継に初めて声が乗る。
「そろそろやってみるか」と、15日間の担当表を組む先輩アナから声がかかりました。相撲アナもこうして力士同様、「番付」を一つずつ上っていきます。私の場合、幕下中継を経験した後は、十両実況、幕内の東西リポーター、そしてラジオ実況とこなして、93年夏場所で初めて念願の幕内を実況することに。“幕内昇進”まで6年を要しています。
幕内中継はNHKの看板。放送後半になると、三役が登場して、やがて結びの一番へと盛り上がっていく。こういう舞台にふさわしい実況をしないといけない。できるようになるには、まあそれくらいの年数はかかるわけですね。
──“入幕”から5年。いよいよ北の富士さんと出会う。98年に北の富士さんが相撲協会を辞めてNHKの幕内中継の解説者になった。
北の富士さんは語りかけると、毎回、話芸豊かに応じてくれたんです。真っ向から返答したり、あるいはいなしたり。いつも余裕があった。だから私は好きなように問いかけるようになって。
一方で、“入幕”から少し時間がたって多少ゆとりが生まれていた私の方が、ちょっとたしなめたりも(笑)。だって何しろ、放送席でも自然体の北の富士さんは時折遠慮のない物言いをするんです。土俵から目を離していることもあったり。それに、ボケも仕掛けてくるから、そういうときは突っ込んだ。私のそんな物言いを北の富士さんは許してくれて、気づけば掛け合いになっていました。
──「解説者と丁々発止やって、明るく楽しく相撲を伝える」という中継スタイルが生まれていた。
まさに北の富士さんの話芸と度量が私のスタイルを生み出してくれたんです。視聴者の中には「北の富士と吉田の居酒屋トーク」と呼ぶ人もいたそうで。私には、「中継は皆さんと一緒に楽しみたい」という思いがあったから、そう言ってもらえるのは、うれしくもありました。
もっとも、仕切りの制限時間いっぱいまで掛け合いをすることもしばしばで、「まったく吉田は、時間いっぱいまでしゃべるな!」と苦情も結構もらいましたが。
2003年春場所、42歳のときには、NHKの相撲アナウンサーの大きな目標である「千秋楽の幕内テレビ実況」を初めて受け持ち、その後、65歳の定年退職まで第一線で実況ができました。それも、このスタイルがあったから。やはり北の富士さんは私の恩人なんです。
──しかし別れがやってくる。2024年11月、本場所中に北の富士さんが亡くなる。(つづく)
(構成=山家圭)



















