中日で過ごした3年間 権藤博さんは俺みたいな“外様”にも陰日向なく接してくれた。いい人だったなあ
前身となる阪急軍から数え、今年で球団創設90周年を迎えた阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)。当時のパを代表する名手を幾人も輩出する中、ひときわ異彩を放っていたのが森本潔だ。球界から突如消えた反骨の打者の足跡と今を、ノンフィクションライターの中村素至氏が追った。(毎週木曜掲載)
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1977年、大型複数トレードで中日に移籍した森本。故障もあったが、1年目の成績は49試合に出場し、打率.172と不振を極め、三塁のポジションを大島康徳に明け渡すことになった。翌78年は二塁を守ることが多くなり、97試合に出場し、本塁打7本をマークした。そのうち1本は広島戦で、江夏豊からだった。
「あの江夏から初めての一発で覚えている。阪急時代にオールスターで対戦したときのような球威はなかったけどね」
中日での3年間を振り返る。
「高木守道には懇意にしてもらったよ。投手の研究に熱心で、癖を見抜くのが得意だった。星野仙一とはそんなに話さなかったけど、礼儀正しく年上の俺に接してくれたよ。移籍してきたときは、まだやれると思っていたんだ」
妻子とは別れて名古屋に単身で暮らしていた。
「節制した生活なんかできるわけがないよね。夜は遊びまくっていた。女には不自由しなかったけど」
「中日では権藤博さん(当時投手コーチ)とよくゴルフをしたよ。権藤さんと井上弘昭(北陽高-電電近畿-広島-中日-日ハム-西武)と3人で、シーズンオフの3年間、自主トレを兼ねてゴルフをしていた。球を打っては走ってね。権藤さんは俺や井上みたいな外様にも、陰日向なく接してくれてね、いい人だったなあ」
79年のシーズンを最後に森本は現役を引退した。
引退後の森本は、名古屋のラジオ局でプロ野球中継の解説者として起用される。ラジオでは「森ヒゲのスポーツジョッキー」という音楽番組のディスクジョッキーも務めた。
「『阪急とのトレードは失敗』という世評は伝わっていた。それなのに引退後に番組を持たせてもらってね。中日には悪かったな、と思っていたよ」
さらに、関西のUHF局のプロ野球中継の解説も務め、古巣阪急の西宮球場での試合、甲子園球場での阪神・中日戦を担当した。
森本の辛口解説は人気があった。関西のUHF局では、マーティ・キーナート(のちに東北楽天のGM)とのコンビでお馴染みだった。
「彼は、少しは野球を知っている男だったかな。でも、個人的な付き合いはまったくなかったよ。テレビ局のスタッフ連中と、彼がやっていた神戸のスポーツバーに何度か行ったぐらい」
森本は、キーナートが2024年に亡くなったことも知らなかった。
「でも、解説のほうは、たいした収入ではなかったよ。解説はどちらも一本10万円ぐらいの契約だった。スポーツ新聞で評論家活動もしていたけど、俺がやっていたスポーツ紙のコラムは口述じゃなくて、自分で原稿を書かかされたんだ。それが面倒でね、何年かして、こちらから辞めた。他に共同経営で会社の社長もやっていたからね。名ばかりの社長だけど、そっちで年収一千万円ぐらいあったから。名古屋の繁華街で『森ヒゲ』という店名のスナックも経営していた」
(中村素至/ノンフィクションライター)



















