(49)悩んだ末に母の車を手放す決断をした…単なる道具ではなかった
母が施設に入って1年後、悩んだ末、残っていた車を手放した。父が亡くなり、母が施設に入ってからも、無人となった実家の駐車場にはずっとその車が残されていた。
帰省するたびにバッテリーが上がっており、エンジンをかけるのに苦労したが、それでも私は、母の施設と実家を往復する足としてこの車を使い続けていた。公共交通機関の選択肢が限られる田舎では、車は生活に欠かせない存在だからだ。
車は、母にとって単なる道具ではなかった。農家の働き手として生まれ、幼い頃から家の手伝いばかりで学歴も職歴もなかった母は、自動車運転免許を頼りにその後の人生を切り開いた。車での仕事をきっかけに、父と知り合ったという。
私が子どもの頃は、弁当店の配達の仕事に車を使い、習い事の送迎も欠かさずしてくれた。母にとって運転とは、自由と自立を象徴するものだったのだと思う。
廃車の手続きは、母が長年懇意にしていた町の整備会社にお願いした。若く朗らかなその社長とは初対面だったが、あっという間に手続きを済ませてくれた。「お母さんには本当にお世話になっていましたから」と、費用は必要ないと言われた。母が日々の暮らしのなかで信頼を積み重ねてきた結果だ。私は感謝の気持ちを伝えるだけで精いっぱいだった。


















