著者のコラム一覧
小倉清一郎元横浜高校野球部部長

1944年(昭19)6月16日、神奈川県横浜市生まれの71歳。横浜―東農大を経て三菱自動車川崎―河合楽器で捕手として活躍。現役引退後、東海大一(現東海大翔洋)―横浜―横浜商―横浜で監督、部長を歴任。松坂、成瀬、涌井、筒香ら多くのプロ野球選手を育てた。98年の春夏連覇を含め、3度の甲子園優勝。渡辺前監督を支える名伯楽として主に技術面を指導した。対戦校の投手陣や打線の戦術分析に定評があり、名参謀と呼ばれた。14年夏限りで横浜のコーチを退任。現在は山梨学院や熊本・城北など、全国の各校で臨時コーチを務める。

センバツ優勝を呼び込んだ吉田監督と健人部長の情熱 「横浜野球」伝授には丸3年かかった

公開日: 更新日:

 吉田監督が初出場だった清峰を率いて勝ち上がってきた06年のセンバツ決勝で、私が部長を務めていた横浜と対戦。横浜が21-0で優勝した時からの縁だ。共通の知り合いである城北(熊本)の末次敬典監督(現・八女学院監督)が推薦してくれたことで、18年8月に臨時コーチとして呼ばれた。「選手はもちろん、(監督の長男)健人をいい指導者にするために野球を教えてほしい」が理由だった。

■「小倉野球」と書かれたノートを手に…

 健人部長は清峰から山梨学院大で学生コーチを務めた後、20年に同校の部長に就任。今では「鬼部長」として打撃、守備、走塁などを指導。普段の練習メニューを考案したり、練習試合の手配なども行っている。

 私が定期的に同校の寮で寝泊まりすると、健人部長は朝練、昼食、練習中、夕食、夜の10時ごろに就寝するまで私のそばから離れない。一言も聞きもらさないといった姿勢で、守備のポジショニングから、戦略、戦術まで事細かく「小倉野球」と書かれたノートに書き込んでいた。聞いたことを全て自分のものにしようとする熱意は相当なものだった。

■関連キーワード

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    名球会入り条件「200勝投手」は絶滅危機…巨人・田中将大でもプロ19年で四苦八苦

  2. 2

    永野芽郁に貼られた「悪女」のレッテル…共演者キラー超えて、今後は“共演NG”続出不可避

  3. 3

    落合監督は投手起用に一切ノータッチ。全面的に任せられたオレはやりがいと緊張感があった

  4. 4

    07年日本S、落合監督とオレが完全試合継続中の山井を八回で降板させた本当の理由(上)

  5. 5

    巨人キャベッジが“舐めプ”から一転…阿部監督ブチギレで襟を正した本当の理由

  1. 6

    今思えばあの時から…落合博満さんが“秘密主義”になったワケ

  2. 7

    巨人・田中将大が好投しても勝てないワケ…“天敵”がズバリ指摘「全然悪くない。ただ…」

  3. 8

    高市早苗氏が必死のイメチェン!「裏金議員隠し」と「ほんわかメーク」で打倒進次郎氏にメラメラ

  4. 9

    世界陸上「前髪あり」今田美桜にファンがうなる 「中森明菜の若かりし頃を彷彿」の相似性

  5. 10

    三角関係報道で蘇った坂口健太郎の"超マメ男"ぶり 永野芽郁を虜…高畑充希の誕生日に手渡した大きな花束