長嶋茂雄と接点を持てた幸せ ふぐ刺しの“長嶋食い”を披露しながら語った家族のこと
私は父子2代の由緒正しい巨人ファンだった。
父は読売新聞の野球部(同好会のようなものではなかったか)で、時々、多摩川の巨人軍の練習場に小さかった私を連れて行った。そこで「背番号16」の川上哲治から、当時としては珍しいチョコレートやキャンディーを山のようにもらったことで、私は熱烈な巨人ファンになった。
私が13歳の時に長嶋が立教大学から巨人に入団した。私たち野球少年はすぐ彼のとりこになった。私が出版社に入ったばかりの1970年代初め、長嶋から先輩編集者に「〇〇さんいますか」と電話がかかってきた。たまたま出たのが私だった。すぐに長嶋だとわかり、思わず「長嶋さん、頑張ってください!」と大声で叫んで、編集部のひんしゅくを買った。
1974年10月14日、長嶋茂雄の引退試合の日、私は後楽園球場のバックネット裏にいた。
社の持っている年間シートを取材だと偽って手に入れ、双眼鏡で長嶋だけを見つめていた。
引退試合は中日とのダブルヘッダーだった。1試合目が終わって突然、長嶋がダッグアウトを出て外野を歩き始めた。「やめないでくれ」という悲鳴のような声が湧き上がった。長嶋は手を振りながら泣いていた。私は双眼鏡が放せないほど涙があふれた。後楽園球場が、日本中の野球ファンが「野球少年の死」(寺山修司)を惜しんだ。