高校生が広告塔になるまでの複雑な駅伝史 実に見事な“本歌取り”には不安がはらむ
転機は1951年、田中茂樹のボストンマラソン優勝だ。国際大会から排除された戦後の閉塞感をマラソンが打破し、山田敬蔵、浜村秀雄と続いて57年に日本実業団陸上競技連合が設立。円谷幸吉のメダル、寺沢徹、重松森雄の世界最高でダメを押した。
陸連がロードに関わり出したのはこの頃からだ。代表選考以外のマラソンに口を出すのも、マラソン出身者を会長に据える国も日本だけ……。欧米で異端のロードレースを支えてきたのは実業団という母体だ。
田中が勝った51年、ボストンを50回も走った名物男のジョニー・ケリーはレース前にこんなことを書いた。
「彼らは一年中、練習している。3週間前に来て練習そして休養……週末に時間を工面している我々のような労働者が勝てるはずはない」
実業団はプロかアマか……定義を棚上げしたままマラソンや駅伝を謳歌していた84年、世界陸連の方がアマチュアの看板を下ろした。異端だったロードレースも90年代に花形レジャースポーツにのし上がった。実に見事な本歌取りには、しかし、不安がはらむ。
箱根駅伝の繁栄は、実業団という受け皿があるからに他ならない。高校駅伝はその箱根を目指して京都の冬を賑わせ、その京都を夢見て中学駅伝もある。しかし、肝心の実業団という経営母体が赤字と聞き、高校生の広告塔に複雑な戦後史を重ねた。それもまた駅伝ということか。



















