「山にこもって木を伐採したり、草を刈ったり」 謹慎中の林業生活を報じたメディアは皆無だった
いったん阪急のフロント入りを承諾しながら、同一リーグの近鉄監督を選んだ西本。「まだ現場で後進を指導したい」という気持ちが残っていて、近鉄からの招聘に心が動いたのか、それとも阪急のフロントの処遇に対して含むところがあったのだろうか。
阪急・上田監督誕生とともに球団を去っていったコーチがいた。チーム生え抜きの本屋敷錦吾である。本屋敷は、長嶋茂雄、杉浦忠とともに立教大学の黄金時代を築き、58年に阪急に入団した。遊撃手として活躍し、64年に阪神に移籍。69年に引退後、70、71年と阪神のコーチを務め、72年に西本監督の要請に応え、コーチとして阪急に復帰した。次期監督候補といってもおかしくない立ち位置だった。だが、西本は後継者に上田を選んだ。
「上田新監督の体制で、監督候補だった本屋敷を残せば、もし成績が低迷したら、監督代行には年上の本屋敷が就任するだろう。休養中に勝ち続ければ監督の座を取って代わられる可能性もあった」(元球団関係者)
(中村素至/ノンフィクションライター)



















