「なぜならそれは言葉にできるから」カロリン・エムケ著 浅井晶子訳

公開日: 更新日:

 激しい粛清の嵐が吹き荒れる中、レニングラードの刑務所に収監されたロシアの詩人、アンナ・アフマートヴァは、彼女が詩人であると知っていた青ざめた唇の女性からこう囁かれた。「じゃあ、あなたがこれを言葉にしてくれる?」と。「はい」と答えると、「かつて彼女の顔だった場所に、ほほ笑みらしきものがかすめた」。哲学者のウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と言ったが、著者は言う。

「極度の不正と暴力という犯罪の最も陰湿な点は、まさに被害者に沈黙させることにある」

 だから、もしも体験を言葉にすることが許されないなら、被害者は永遠に自身の体験を抱えて孤独なままでいなければならない。青ざめた唇の女性がアフマートヴァに託したのは、自分が置かれている状況(これ)を言葉にして、その孤独から解き放つことなのだ、と。

 本書には、悲惨な体験を被ったさまざまな人たちの言葉が引かれている。たとえば、イラク戦争時に米軍が運営していたアブグレイブ刑務所で手ひどい虐待にさらされた囚人の証言。あるいはユーゴスラビア紛争時にセルビア軍兵士に強姦されたムスリム女性の証言。このムスリム女性は、長い沈黙の時を経て、ようやく裁判でその体験を語るのだが、なぜ最初に話さなかったのかと問われ、「わかりません、口から言葉が出てきませんでした」と答えている。

「アウシュビッツの後では詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉があるが、たとえ野蛮でも、言葉にしなければ世界への信頼を取り戻すことができないという切迫感が伝わってくる。

 相互憎悪のジレンマから抜け出す希望を語った著者の「憎しみに抗って」同様、真のジャーナリストの矜持がここにはある。 <狸>

(みすず書房 3600円+税)

【連載】本の森

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    ドジャース佐々木朗希に向けられる“疑いの目”…逃げ癖ついたロッテ時代はチーム内で信頼されず

  2. 2

    ドジャース佐々木朗希の離脱は「オオカミ少年」の自業自得…ロッテ時代から繰り返した悪癖のツケ

  3. 3

    ドジャース佐々木朗希「今季構想外」特別待遇剥奪でアリゾナ送還へ…かばい続けてきたロバーツ監督まで首捻る

  4. 4

    中日・中田翔がいよいよ崖っぷち…西武から“問題児”佐藤龍世を素行リスク覚悟で獲得の波紋

  5. 5

    西武は“緩い”から強い? 相内3度目「対外試合禁止」の裏側

  1. 6

    「1食228円」に国民激怒!自民・森山幹事長が言い放った一律2万円バラマキの“トンデモ根拠”

  2. 7

    “貧弱”佐々木朗希は今季絶望まである…右肩痛は原因不明でお手上げ、引退に追い込まれるケースも

  3. 8

    辞意固めたか、国民民主党・玉木代表…山尾志桜里vs伊藤孝恵“女の戦い”にウンザリ?

  4. 9

    STARTO社の新社長に名前があがった「元フジテレビ専務」の評判…一方で「キムタク社長」待望論も

  5. 10

    注目集まる「キャスター」後の永野芽郁の俳優人生…テレビ局が起用しづらい「業界内の暗黙ルール」とは