「利他」の落とし穴とブームへの懸念 伊藤亜紗氏に聞いた
伊藤亜紗(東京工業大学 未来の人類研究センター長)
新型コロナ禍で「利他性」「利他的な行動」といった概念がちょっとしたブームだ。クラウドファンディングなどの寄付が増え、他者の利益を優先する考え方に関心が高まる。とはいえ、「利他」はけっして「利己」の対義語ではないし、そこには自己責任論や分断が蔓延する社会を打開するヒントとともに落とし穴もあるという。「利他」を研究テーマとする気鋭の学者・伊藤亜紗氏に、昨今のブームについて聞いた。
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――新型コロナ禍での行動変容として「利他」という考え方が注目され、寄付も増えています。この状況をどう捉えていますか。
確かに表面的にはいろいろな動きがあります。最初の緊急事態宣言の時は、街がシーンとして、すべてが止まって、みんな予定が白紙になった。東京五輪が最たるものですが、特に、東京のような都会で生活している人たちは、計画を実行するマシンを回していくパーツとして生きてきた。しかし、すべてが止まった時に、今までの生活や社会のしくみ、物事の進め方を少し考え直さなければいけない、と思ったのだと思うんです。そこで出てきたのが「利他」という発想でした。自分のためではなく、人のために何かをしようとすることは、とてもいい流れだとは思いつつも、冷静にならなければならない部分もあるだろうなと見ています。
――若い世代ほど寄付などの行動の比率が高いといいます。これは利他への関心の高さを表しているのでしょうか。
そうとも言い切れないと思います。研究室の学生と話している時に、「自分の好きな人に好きだと言われることがつらい」という話になった。私の世代なら「両思いだからいいじゃない」と思うのに、今の若い人はそう単純ではないらしく、大規模なアンケート調査を行ったのです。すると4割が「人から優しくしてもらったことや好きな人から『好きだ』と言われたことを素直にうれしいと思えなかったことがある」というんですね。
――えっ、そうなんですか。
「受け取り下手」になっているのではと感じました。喜べない理由は、男性で多いのが「自分にはそんな価値がない」。こんなすてきな人が自分のことを好きになるなんてあり得ない、と考えて好意を受け止められないのです。女性で多い理由は「借りをつくってしまう感じがする」。人に何かをしてもらったら、自分もお返ししなきゃいけないけれど、それは無理だから、何もしてもらいたくない、と。いずれも、「受け取る」ことに対して素直になれない感じがある。
■してあげる、ではなく受け取ってもらう
――受け取ることと利他は、どういう関係性なのでしょう?
利他では、「してあげる」ことをつい考えるのですが、受け取ってもらってこそ利他なのです。よく言われる「人のために何かをしてあげる」という発信型の利他は、必ずしも利他になるとは限りません。私は障害の研究をしています。善意で「障害のある人を助けよう」と手を差し伸べることが、本人の挑戦しようという気持ちを先回りで摘んでしまうことがある。「障害者を演じさせられている」とみな言います。利他で大事なのは受け取る側なのです。自分が知らない可能性を引き出してくれたとか、その人に出会うことで新しい価値を発見できたとか、受け取る側がそう思った時が利他が成立する瞬間なのです。けれども、社会全体、特に若い人が「受け取る」ことに対してすごく緊張している。返さなきゃという感覚が強い。交換原理で動いてしまっている。つまり、コロナ禍で表面的には利他的な行動が高まっているように見えているけれど、実は違う可能性もあると思っています。
――それが伊藤先生の言う「利他の落とし穴」ですか。
利他の大原則は、人をコントロールしてはいけない、ということ。利他の対義語は利己だと思われがちですが、一見、利他的な行動をしている人ほど利己的なのです。近著「『利他』とは何か」でも強調した点ですが、利他は「うつわ」のようなもの。スペースや余裕。こうするとハッピーでしょう、という押しつけではなく、むしろ相手の話を聞くとか、相手が自分の想像とは違うことを言った時に、それを受け止めて次の提案をするとか。そうした偶然を受け止めるものが「うつわ」。個人だけではなく会社や組織でも同じです。まったく余裕がなくギチギチの組織は、利他的になれないと思います。
コロナのような危機と関連づけて「利他」が語られるときは危ない
――コロナ禍で生まれた「自粛警察」や「同調圧力」の強まりは、時に利他的と見なされたりしますが、実際はどうなんでしょう?
私は常々、「道徳」と「倫理」の2つの概念は区別すべきだと思っています。道徳は一般論。困っている人がいたら助けましょう。小学校で習います。それは、命令です。一方、倫理は具体的な状況において、最善な選択をすること。必ずしも道徳が命令することがベストとは限らないわけです。自粛警察は「こうすべきもの」と上から一般論の道徳を投げてくる。異なる状況で創造性を発揮する倫理を道徳が抑圧していくことは、とても怖いことです。
――昨今の「利他」ブームに対して、何か懸念はありますか?
コロナはすごく大きなレベルの危機で、なんとかしなければいけない。そこを利他と関連づけて論じられがちで、そういう大きな言葉で語られるときはやはり危ない。先日、「利他学会議」というイベントで東工大の建築学の研究者・塚本由晴さんが話されたことですが、塚本さんがつくられた大学の線路沿いにあるソーラーパネルの建物は、建物内で使う電力を完全自給しています。それを聞くと、環境に優しくてとてもいい感じがするじゃないですか。でも完璧すぎて、中で暮らしている人の生活は何も変わっていない。むしろ便利だから逆に現状の社会システムを強化するような、単に効率のいい暮らしが実現してしまっていて、それではあまり意味がないと塚本さんはおっしゃっているんです。
■人をコントロールしない解決策
――なるほど。興味深いですね。
「人的資源」という言葉が最近よく聞かれますが、塚本さんは「人」を最後に持ってきて「資源的人」とおっしゃっている。人的資源は現状のシステムを前提として人をパーツとして見ていくような発想。そうではなく、環境から自分に必要な資源を取り出せる能力を持っている人、例えばその辺の雑草を見て「これ食べられる?」とか、そういうレベルで資源を取り出せる人になることが重要なのではないかというのです。地球規模のSDGs(持続可能な開発目標)も大事ですが、それだけでは結局何も変わらないということが繰り返されてきているので、そういう生活レベルで利他を考えてみることこそ、実は地に足が着いていると思うのです。コロナで利他が注目されている時に、「利他がすべてを解決する」「次のコンセプトは利他だ」みたいになることが一番怖い。
――利他を研究している「未来の人類研究センター」が東工大という理系の大学にあることが不思議です。
科学技術は世界をよくしたい、人のためになりたいという思いで始まっていますから、もちろん利他的であろうとしている。しかし、本当にそうなのか、と思うこともたくさんある。スマホは便利だけれど、苦しい部分もあるわけじゃないですか。何回も見なければいけないし。先ほどの「障害者を演じさせられている」という話と同じで、科学技術も、人間にとって幸福とはこうである、だから、こういう技術をつくれば人間はこうなるはずだ、と考えて、みんな先回りでいろいろなことをやっているのですが、そこで想定されている人間像とか人間の幸福というものが、ものすごく貧困だったりするわけですよ。今やテクノロジーの進化より、人間がテクノロジーにフィットしていく変化の方が速い。どんどん人間がAI化していくような感じです。科学技術の一番の欲望は人間をコントロールすることなので、本当の利他、つまり、コントロールしない解決策を探し出すことは、科学技術において根本的な問いなのです。
(聞き手=小塚かおる/日刊ゲンダイ)
▽伊藤亜紗(いとう・あさ)1979年、東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了。文学博士。美学者。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院准教授。「記憶する体」(春秋社)でサントリー学芸賞。「『利他』とは何か」(編著・集英社新書)が最新刊。