僕は宝塚シニアの3年時、全国大会初出場でPL学園からスカウトされた。後に阪神同期入団する二塁手は…

中学は硬式のクラブチーム、宝塚シニアに入った。自宅から一番近いのがまず第一。比較的新しいチームなので、古い伝統みたいなものがないのが気に入った。小学校時代は軟式の学童チームだったため、初めての硬式野球。中学時代は野球以外の体幹トレーニングや体のケアも大事だと教わった。中1の入団時は170センチほどだった身長が3年間で一気に15センチも伸びた。3年間はあらゆる関節が痛くなる「成長痛」に悩まされた。特に腰痛がひどかった。
宝塚にある評判のいい伊作接骨院を紹介してもらい、連日治療に通った。先生には人体の仕組みやストレッチの方法などを教わった。ある時は悩みを聞いてもらったり、話をするのが楽しみだった。
当時、僕より4歳年上の伊達公子さんも通院していた。まだ知られていなかったが、先生が「この子は近い将来、絶対有名になるで!」と自慢げに話していた。
京都出身の伊達さんは、テニス強豪校である兵庫・尼崎の園田学園高に在籍中で、その後、プロに転向して世界で活躍。まさに先生の言う通りになった。
僕は中学時代は主戦投手。登板しない時は遊撃や三塁を守った。
グラブもバットも硬式用になったが、中学時代はまだ自分に何が合っているのか分からず、模索している状態だった。PL学園に入ると、グラウンドに出入りするスポーツメーカーの担当者が、ポジションごとのグラブやタイプによって合うバットがあることを教えてくれた。ここで初めて用具の大切さを知ることになる。
同期には後に阪神で再会することになる星山忠弘がいて、宝塚シニアではセカンド。島根・江の川(現・石見智翠館)に進学し、投手に転向した。日本文理大を経て僕と同じ1996年ドラフト4位で阪神に入団。同1位の僕とまた同期になった。
宝塚シニアは新しいチームだったが、
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