日本サッカー界のレジェンド釜本邦茂さんを悼む…不世出のストライカーが日刊ゲンダイに残した金言の数々
長嶋茂雄さんの訃報の同日、心停止の危篤状態に陥った
「日本サッカーの父・クラマーさんにも相談したら『西ドイツの名の知れた強豪を選べ』と言われたが、まず(かつてのサッカー留学先で馴染みのある2部)ザールブリュッケンでドイツにより慣れ親しみ、結果を残してステップアップするのがベストと決断して『後はサインだけ』というところまで話は進んだ」
ピッチ外では「人見知りで人の輪にパッと入っていけない性格。何事も慎重に推し進める」ことを信条とする釜本さんらしい堅実な選択だった。
もっとも69年にウイルス性肝炎を罹患したことで海外移籍話は流れてしまった。釜本さんが初の欧州組になっていたら、93年のJリーグ発足、98年のW杯初出場、02年のW杯初開催は「10年早く実現したのでは?」と聞くと「さぁ~どうやろうなぁ~」と言いながら口元を少しだけ緩めた。
6月3日午前6時39分に「ミスタープロ野球」長嶋茂雄氏が死去した。
釜本さんの早大サッカー部の3学年上で元JFA副会長の野村尊敬氏は「野球のレジェンドがサッカーのレジェンドを天国に引っ張ってしまわないか? そんな胸騒ぎがして……」修子夫人のスマホに電話を入れた。
記者も同じ思いから同日夕方に「お変わりはありませんか?」とラインを送った。返答は、容体が急変して病院に緊急搬送されて6月3日には心停止の危篤状態に陥ったという驚愕の内容だった。
自宅のベッドで療養生活を送っていた釜本さんは、夫人の献身的なサポートで口から普通食を取ったり、コーヒーをストローで飲んだり、記者の手土産のスポンジケーキをひと口大にして交互に食べた。そんな2人の仲むつまじい光景を思い出しながら、冥府に旅立った釜本さんに合掌──。
(絹見誠司/日刊ゲンダイ)
▽釜本邦茂(かまもと・くにしげ) 1944年4月15日、京都市生まれ。山城高から早大。68年メキシコ五輪銅メダルの立役者となり、7ゴールで得点王。日本代表国際Aマッチ通算76試合で歴代1位の75得点(2位は三浦カズの55得点)。ヤンマーでは日本リーグ7回優勝。通算202得点(251試合)。84年に現役引退。JリーグG大阪の初代監督を務め、JFAでは副会長などを歴任。2005年に日本サッカー殿堂入り。病気療養中の8月10日、肺炎で死去。81歳だった。