ロッテ2位・毛利海大 父が語る炎天下の「やってよかった」荒療治…先輩の失策で不貞腐れた息子に喝入れた
毛利海大(明大・22歳・投手)
「左腕投手って、かっこいいじゃないですか」
こう話す毛利の父・貴博さん(47)は、毛利が3歳の時におもちゃ屋で買った左利き用のグラブを持たせた。野球をさせたいというより、ほんの思いつきだった。
福岡県出身の貴博さんは中学時代、鷹羽ボーイズ(同県田川郡)に所属。後に広島、楽天でプレーした左腕の佐竹健太さんとは同級生で親友。貴博さんは広陵(広島)に進学した親友と「対戦したい」と同じ県にある如水館へ。二塁手として活躍し、卒業後は当時の迫田穆成監督の勧めで軟式野球の強豪チームを有する病院に勤務した。老人ホームで介護に携わりながら、看護師学校への合格を目指していた。
「真面目にやっていたのですが、どうにも試験に通らなくて(笑)。2年ほど勤めた頃、実家から『仕事の空きがあるから戻ってこい』と連絡があり、腹をくくって、福岡に帰りました」
自動車部品メーカーを紹介され、入社するまでは親戚の家業を手伝った。そんな折、社員旅行で訪れたハワイで“運命の出会い”が待っていた。
「ビーチで日本人女性のグループと仲良くなったんです。そのまま解散したのですが、夜のクルーズ船でばったり再会。妻との出会いです」
母・洋美さんは埼玉に住み、西武の球団職員を務めていた。遠距離恋愛で互いの家を行き来し、西武球場や福岡ドームでデートした。結婚してほどなく長男として毛利が生まれ、3年おきに次男と長女を授かった。
毛利が野球を始めたのは、親子でコミュニケーションを図ることが目的だった。保育園時は空手をやり、地域の大会で賞状をもらった。友人に誘われて伊田レッドスターに入団してから野球一本に。空手の師範から引き留められたものの、毛利の意思を尊重した。
野手出身の貴博さんに投手育成の専門知識はなかったが、走り込みの重要性は理解していた。
「家の前の田んぼ道を毎日2キロほど走らせました。海大は要領がいい分、サボるかもしれないと思いましたが、リビングのカーテンを開ければ田んぼ道が一望できる。僕が仕事に出ている間は、妻が見張り役でした」
中学校に進級して貴博さんと同じ鷹羽ボーイズに入団。自宅での自主練習も進化した。
「実家の近くに目をつけていた坂があった。全長60メートルほど。自転車なら立ちこぎでやっと上れる急坂です。そこを1日20本ダッシュさせることに。今度は僕のオヤジに見張りを頼みました」
さらに貴博さんは「野球だけできる人間にはしたくない」と、中学1年時に塾に通わせた。しかし毛利は野球の練習時間が減ることに反発。親子で話し合い、「通知表で『2』を取ったら塾に戻る」と決めた。毛利は時に机にかじりつきながら、「オール3以上」を死守した。
そんな貴博さんが一度だけ本気で叱ったことがある。中1の夏、毛利が上級生の試合で投げた際、先輩の失策にふてくされて不満をあらわにした。チームの雰囲気も悪くなり、試合に敗れた。


















