「病魔という悪の物語 チフスのメアリー」金森修著
緊急事態宣言が解除されてから2カ月余。再び新型コロナウイルスの全国的な感染拡大が懸念され、併せて無症候性キャリアーの増大が問題になっている。サイレントキャリアーが多くなれば、社会全体が疑心暗鬼に陥らざるを得ない。この無症候性キャリアーの典型として歴史に名を残しているのが、100年前のアメリカの女性、メアリー・マローンだ。本書はこの女性の生涯を描いたもの。
メアリーは1869年、北アイルランドに生まれ、14歳の頃、一家でニューヨークへ移住。その後しばらく記録は途絶えるが、彼女の名前が浮上するのは1906年だ。その夏、ロングアイランドの別荘に保養に来ていたウォレン一家に6人の腸チフス患者が出た。調べてみると、チフス発生の数週間前にウォレン家は新しい賄い婦を雇い、事件発生後、仕事を辞めていた。
この賄い婦こそメアリーで、彼女はそれ以前に3つの家庭で働いており、ウォレン家も含めて22人のチフス患者が出ていることが判明。
しかし、健康保菌者という概念は、当時の医学界でもまだ確立されておらず、メアリーこそ、アメリカで最初にその存在を証明された健康保菌者だったのだ。
とはいえメアリーのような一般人がそれを理解できるはずもなく、自分は健康だと抵抗したのも無理はない。それでも病院に隔離され、マスコミは彼女を「歩くチフス工場」「人間・培養試験管」などと名付け、やがて「チフスのメアリー」という名が定着する。
メアリーは1910年に釈放されるが、15年にニューヨークの婦人科病院で腸チフスが集団発生。そこにメアリーが偽名で賄い婦として働いていたのだ。先の釈放時に「今後は料理をしない」という誓約をしたメアリーが、なぜ賄い婦の職に就いたのか。
本書は、メアリーと彼女を取り巻くさまざまな人の証言をもとにその理由を読み解いていく。
新型コロナウイルスの今後の状況は予断を許さず、さまざまな流言飛語が飛び交うことが予想される。何よりも求められるのは事実を踏まえた冷静さだ。本書はそのためのよき導きの糸となるだろう。<狸>
(筑摩書房 760円+税)