束の間の時間に繰り広げられるドラマ 文庫短編小説特集

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「幻の女」田中小実昌著、日下三蔵編

 喫茶店や映画館に入るほどでもない、ちょっとした時間ができたときは、短編小説のページを開いてみよう。ほんの束の間に栄華を極めた夢を見た「一炊の夢」の廬生のように、いっとき、宇宙人や殺された男になってみるのも悪くない。



 聖(セント・インフォメーション)受付係に「教会発行のパスポートは?」と聞かれて、テキヤの源太は頭をかいた。死亡年月日や死亡原因を聞かれてもわからない。「自分の死にたいして、確固たる自覚のない者は、天国にいれるわけにはいかん」と言われて、下界に戻って調べることに。

 新宿東口の小さな飲み屋で焼酎を飲んだのが、下界での最後の記憶だった。源太はその店の娘の美子に熱を上げていた。美子が店の客に話しているのを聞くと、源太がよろよろと表に出ていって、陸橋の上で転がっているのをアベックに発見された。背中を短刀で刺されていた。

 源太は自分を殺しそうなやつは見当がつかない。だが、聖受付係に犯人を確かめないと地獄に行かせると言われて、新大久保駅近くの自分のドヤに行ってみたのだが……。(「たたけよさらば」)

 異色の物語15編を収録。

(筑摩書房 840円+税)

「25の短編小説」小説トリッパー編集部編

 感染症の流行で出社しなくてもよくなった。セリーヌのトートバッグも使わないし、化粧もしなくていい。

 公園を出て歩道橋を上がると、子どもが手すりの柵に取りすがっていた。右腕のこぶしから、クローバー型の鍵がついたネックレスがぶら下がっている。お姉ちゃんにもらったという。彼氏のプレゼントだが、もう別れたからいらなくなったらしい。鍵が柵に当たってピン、ピンと小さな音を立てる。「なんでそれ、やってるの」「大事だから」

 帰宅して、ベランダで何も持っていない右腕を伸ばしてみた。その手には何か大事なものを持っていたのに、自分の不注意や気まぐれから台無しになって、二度と元には戻らないと考えてみた。(藤野可織著「なにも持っていない右腕」)

 SFからナンセンス小説まで、角田光代ら25人の人気作家による文庫オリジナル・アンソロジー。

(朝日新聞出版 800円+税)

「矜持」今野敏ほか著

 酪農家の大西の飼い犬が殺された。至近距離から散弾銃で顔を撃ったらしい。川久保巡査部長は、変質者は小動物を殺すところから社会とずれていくという言葉を思い出して不安を覚えた。

 2日後、篠崎牧場の主、篠崎征男が血まみれ死体となって発見された。鉈で顔をつぶされており、雇われていた中国人研修生たちの姿が消えていた。彼らの待遇について、篠崎は大西と口論をしていたという。

 通報したのは篠崎の長男の章一だった。章一は篠崎の最初の妻、菊江の子どもだが、菊江は姑にいじめられ、章一が6歳のとき、自殺した。篠崎の両親の家が火事になり、その後、菊江が沢で死んでいるのが発見されたのだ。姑は葬儀の席で、交通事故で死んだと言いつくろったが、みんな自殺だと知っていた。(佐々木譲著「遺恨」)

 信念をもって捜査に当たる警察官を描く警察小説傑作選。

(PHP研究所 780円+税)

「短編宇宙」集英社文庫編集部編

「俺」は水面を突き破って浮かび上がり、大量の水を吐き出した。そこは白っぽい光に照らされた無機質な部屋だった。転びそうになって壁に手を突くと、壁が長方形にくぼんで戸口になった。

 複数の足音や銃声が聞こえたので戻ろうとすると、戸口が縮んで元の壁になった。セーラー服を着た黒髪の少女が銃を何発か発砲してこちらを向き、俺に気づいた。その背後に全身緑色の巨大な化け物が現れ、銃口を俺に向ける。

 俺は少女の銃をひったくって化け物を撃った。「さすが殺し屋」と少女が言うので、「なぜ俺のことを知ってる」と尋ねた。少女の名はシフカ。2人はマヤミラ星系に向かう無人の宇宙船に密航しているという。そして彼女が言うには、殺し屋のマインドセットをして万物プリンターで「俺」を作った、と。「殺してほしい奴がいるから」。(宮澤伊織著「キリング・ベクトル」)

 加納朋子ら個性豊かな作家7人が宇宙をテーマに描くアンソロジー。

(集英社 680円+税)

「ハーメルンの笛吹きと完全犯罪」仁木悦子、鮎川哲也ほか著

 音楽なんか聴き飽きたという男が、友人に連れられてレコード店というよりは骨董屋のような雰囲気の店に行った。主人は先祖代々録音マニアだと言い、店の片隅に録音テープが積まれていた。マリリン・モンローのあのときの声などがあると言うが、男が固く封印された箱に目を留めると、主人はあわてて、それだけは売れないと言う。若い女の歌声が録音されているが、その声を聴いた者はすぐに死ぬ、と。

 男はそのテープを買って、帰宅するとすぐ聴いてみた。すると、心をとろかすような歌声が聞こえ、男は「僕を呼んでいる!」と叫んで道に飛び出し、車にはねられて死んだ。そのテープは歌手も曲名も不明だが、なぜか録音された地だけは書かれていた。あのライン河畔の……。(小泉喜美子著「遠い美しい声」)

 ほか「笛吹けば人が死ぬ」など、8人の作家による世界の昔話にちなんだミステリー。「日本編」もある。

(河出書房新社 720円+税)

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