骨髄異形成症候群との闘い…プロゴルファー中溝裕子さん移植手術を振り返る
中溝裕子さん(プロゴルファー・絵手紙作家/59歳)=骨髄異形成症候群
「生きるチャンスが目の前にあるのに、なんでおまえはそれをものにしないんだ! なに逃げてんだ! おまえは治る! ゴルフがしたくないのか? 死にたいのか? どっちだ!」
そう檄を飛ばされ、ボロボロ泣いて移植を決意したのは1997年のこと。言ってくれたのは先代・阿武松親方(元・益荒雄)です。女将さんが女子プロゴルフの先輩で、実妹からの骨髄移植をためらっている私を見かねて親方に引き合わせてくれたのです。妹と親方が私の命をつないでくれました。
「骨髄異形成症候群」を発症したのは1991年。プロになってからわずか3年目のことでした。咳や微熱、だるさをただの疲れだとずっと思っていました。でも先輩から顔色の悪さを指摘され、病院に行くことを勧められたのです。仕方なく病院に行って検査は受けたものの、健康に自信があったので結果を聞きに行きませんでした。すると、ある日の試合終わりに、会場のフロントに「すぐにご両親と一緒に病院に来てください」とのメモがあったのです。
この病気は“白血病の一歩手前”と言われています。血液をつくる土壌である骨髄ががん化してうまく血がつくれないのです。医師によると「治らない病気です。薬はありません。唯一、骨髄移植が最近できるようになりました」とのことでした。
移植には白血球の型が一致するドナーが必要で、家族中を調べたら、真ん中の妹がピッタリ一致しました。でも症例も少ない頃でしたし、必ず治るとも言い切れない治療に、妹を巻き込んで怖い思いをさせたくないと思い、移植する気はありませんでした。
それから6年間、そのままプレーを続けました。ゴルフクラブを握っている間は集中でき、死の恐怖を忘れられたのです。ゴルフから離れたくなくて、拠点を滋賀から関東に移し、東京女子医科大学病院の血液内科を紹介してもらいました。
主治医に「私、あとどれだけ生きられるかわかりません。でも今期は全試合出場できる権利を取ったので、出られるように何とかしてください」とお願いしたのです。そして、輸血をしながら試合に出場しました。初めは1カ月に1回だったのが、2週に1回、週に1回と、輸血が頻繁になりました。生理の血ももったいないと、薬で生理を止めたこともあります。でも、止め続けるのもよくないので薬を止めたら、ある朝、布団が血だらけでした。
血を止める血小板も減っているため出血の勢いが激しくて、そのまま5日間、輸血になりました。基本的に輸血は赤血球だけなんですけど、ついに血小板の輸血も始まり、先生に「そろそろ移植を」と提案されました。