エスケイジャパン 八百博徳社長(1)高校の同級生に誘われ入社すると、社員は2人だけだった
八百は91年3月に入社。当時、エスケイジャパンは、久保を入れて社員2人と事務員だけ。それでも1億円ちょっとの売り上げはあった。八百は3番目の社員で、八百のマンションが福岡事務所となった。
九州一円の営業が八百の担当。商材の傘や財布のほかにキャラクターグッズを持って問屋や雑貨専門店などを回った。転機が訪れたのは入社2年目。参加したゴルフコンペで一緒にプレーしたのが、ゲームセンターの景品を扱う人だった。
「どんな商売をしているのと聞かれ、当時、上代が380円の小さなぬいぐるみを売っていて、その話をすると、じゃあ、月曜日にうちに持ってきなよと。小売店と違って、仕入れてくれる数のケタが違っていた。小売店だと1ダース、2ダースのレベルだったが、ゲームセンターでは1ケース100個入りを10から20ケース注文してくれるのです」
ここで、アミューズメント業界に入る機会をつかんだ。久保もここだと判断。一気呵成にこの業界に打って出た。社員も増やし、東京、名古屋にも拠点を設けた。
八百は4年ほど福岡にいて常務になっていたが、常務が本社にいないのはおかしいと家族を残し、大阪本社に。その後、エスケイジャパンは上場を果たし、13年8月、創業社長だった久保は入院することになる。白血病のキャリアーだったが、数値が一線を越えたのだ。
「その年、アメリカに共に出張し、そこで飲んだのが彼との最後の酒となりました」
久保が入院してから八百は専務に就任。年が明け、5月には株主総会を控えていた。 (つづく)
(ライター・坂本俊夫)