西ドイツ留学で日に日に自分のプレーが“欧州仕様”になっていくのが分かった
1968年の1月18日に西ドイツ(当時)のザールブリュッケン市に到着した。ここのスポーツシューレに寝泊まりしながら、本場のサッカーを学ぶためである。
17日に来日していた西ドイツ五輪代表と対戦して0-1で敗れ、その翌日の帰国便に同乗してフランクフルト空港に向かった。到着すると彼らは「あとは駅に行って汽車に乗れば大丈夫」と手を振りながらサヨナラだ。「その駅、一体どこにあんの?」と立ち尽くしていると若い日本人が近づいてきて「釜本さんですよね?」。地獄に仏とはこのこと。駅まで連れて行ってくれ、切符の買い方も教えてくれた。
ザールブリュッケン市はドイツの西の端っこに位置し、3キロ先がフランスとの国境だった。
フランクフルトから汽車で4時間ほど。とにかく心細かったな。駅に停車するたびに「ザールブリュッケン?」とコンパートメントで一緒だった人に聞いたもんや。
後に西ドイツ代表監督を務めたデアバルさんが、コーチとしてあれこれ面倒をみてくれた。
そのデアバルさんから「プレーの速さと俊敏性」を徹底的に叩き込まれた。ボールを受けて次のプレーに移るまでのスピード、シュート体勢に持ち込むまでの俊敏な動き、シュートの際に足を振り切るスピード……すべてをレベルアップするために鍛錬を続けた。