「恥のきずな」カルロ・ギンズブルグ著 上村忠男編訳

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 ミクロヒストリア(小さな歴史学)と呼ばれる、小さな共同体やある個人に焦点を当てた新しい歴史学の動きが出てきたのは1970年代からだが、その代表的な著作がカルロ・ギンズブルグの「チーズとうじ虫」(1976年)だ。

 16世紀後半、イタリアのフリウリ地方に住むある粉挽き屋が異端の宇宙観を主張したゆえに異端審問にかけられた。その裁判記録を詳細に読み解いて当時の民衆の文化・心性を見事に浮かび上がらせた名著。「新しい文献学のために」という副題があるように、本書は著者が主に文献学的な視点で書いた論考を訳者が独自に編集した日本オリジナル論集である。

 本書で著者がくり返し指摘するのは、行為当事者の次元と観察者の次元の関係性、言葉を換えれば、歴史家が依拠する記録史料に書かれている言葉と歴史家の用いる言葉の間に介在する関係である。

 たとえば、「恥」のような想念を歴史的に分析することが可能か。まず、古代ギリシャ語の「アイドース=恥」という言葉が「ネメシス=怒り」という言葉と結びついていたことを示す。そしてアウグスティヌスの「告白」においては恥の意識と原罪意識とが厳然と区別されているものの微妙に絡まり合っていることを指摘。さらにはプリモ・レーヴィが書く、アウシュビッツの犠牲者・解放者が抱いた、不正義を阻止できなかった恥ずかしさと罪の感情を紹介する。同じ「恥」という言葉でくくられる想念にも実に多様な面があり、それを一元的に捉えることはできないのだ。

 あるいは、文字に書かれる以前の詩なり歌に含まれていたその時代の人たちの感情や歌うという行為の意味合いは、それが文字に書き起こされた途端に消えてしまう。同じことは「翻訳」という行為においても起こる。翻訳には常に翻訳不可能性という限界がついて回るのだ。

 ネット社会においては、あらゆる情報にアクセスできるように思えてしまうが、本当に大切なのは個々の情報の背後にある歴史の厚みと複雑さを知ることだと教えてくれる。 <狸>

(みすず書房 6380円)

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