「切り裂きジャックに殺されたのは誰か」ハリー・ルーベンホールド著 篠儀直子訳

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 イギリス史上最悪の犯罪とされる切り裂きジャック事件。この19世紀末に起きた連続殺害事件には「売春婦殺し」という文言が常に冠されてきた。

 しかし、公式認定された5人の被害者のうち3人は売春婦だったことを示唆する明確な証拠はない。しかも犯人と被害者との間に性交は認められず、争った形跡もなく、悲鳴を聞いた者もいない。つまり、切り裂きジャックがターゲットにしたのは売春婦ではなく就寝中の女性だったのだ。にもかかわらず、彼女らは売春婦で、誘い込んだ変質者によって殺害されたという「推測」がその後長く語り継がれてきた。

 本書はそうした推測を排し、1次資料に徹底的に当たった上で、5人の女性たちの人生を丹念にたどっていく。

 5人の名前は、ポリー、アニー、エリーサベト(エリザベス)、ケイト、メアリー・ジェイン。いずれも事件の起きた1888年8~11月、ロンドンのホワイトチャペル地区に暮らす貧しい女性だった。ポリーは鍛冶屋の娘。早くに亡くなった母親の代わりに父やきょうだいを支えてきた。結婚して子どもにも恵まれたが、夫と不仲になり別れて救貧院の世話になる。アニーは非嫡出子として生まれ、幼い頃から働きに出る。結婚して落ち着くかに見えたが精神的なストレスから酒に溺れ、浮浪生活に落ちていく。スウェーデン生まれのエリザベスは、奉公先で梅毒をうつされ移民としてロンドンへ……。

 生い立ちや成育環境は異なるが共通するのは、幼い頃から働きに出て、結婚によって暮らしの安定を求めるが、避妊の知識がない時代、度重なる妊娠で心身共に疲弊する。そこに待っているのはアルコールという悪魔だ。そう、彼女らは決して「単なる売春婦」などではなく、懸命に生きてきたにもかかわらず歯車が噛み合わずに貧困に陥った女性だった。

 そうした彼女らへの尊厳を取り戻そうとする著者の力強い意志が伝わってくる。 <狸>

(青土社 3520円)

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