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六川亨サッカージャーナリスト

1957年、東京都板橋区出まれ。法政大卒。月刊サッカーダイジェストの記者を振り出しに隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長を歴任。01年にサカダイを離れ、CALCIO2002の編集長を兼務しながら浦和レッズマガジンなど数誌を創刊。W杯、EURO、南米選手権、五輪などを精力的に取材。10年3月にフリーのサッカージャーナリストに。携帯サイト「超ワールドサッカー」でメルマガやコラムを長年執筆。主な著書に「Jリーグ・レジェンド」シリーズ、「Jリーグ・スーパーゴールズ」、「サッカー戦術ルネッサンス」、「ストライカー特別講座」(東邦出版)など。

長い歴史が続いている「キリンカップ」で残念でならないことがある

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 彼を初めて間近で見たのは、1992年のキリンカップのウエルカムレセプションだった。

 会場のホテルの通路で偶然、遭遇した時だったと記憶している。公表されている身長185センチ・体重73キロとは到底思えないほどの威圧感があった。まるで見上げるような感覚だった。

 もし自分がピッチで相対し、彼が長髪を振り乱しながら全速力で突進してきたら、間違いなく逃げ出したに違いない。ぶつかられたら最後、跳ね飛ばされるのはもちろんのこと、怪我をしないでいられるとは思えなかったからだ。

 アルゼンチン代表FWのガブリエル・バティストゥータ(当時はセリエAのフィオレンティーナ所属)との初めての邂逅だった。

 1978年5月にスタートしたジャパンカップ(現キリンカップ)は、今年で44年を迎える。

キリングループが2030年まで契約延長

 そんな歴史のある大会のメインスポンサーであるキリンホールディングス、キリンビール、キリンビバレッジの3社は6月1日、2023年から2030年の8年間に渡って「日本サッカー協会オフィシャルパートナー」の契約を締結することで基本合意した。

 トータルすると実に半世紀以上となる長期の契約年数だ。

 さらに次の8年間のパートナーシップ契約には、現在の「日本代表オフィシャルパートナー」から協賛対象範囲を広げ、全てのカテゴリーの日本代表チームだけではなく、各種大会や選手育成、指導者養成、審判、グラスルーツなどJFAの事業全般をサポートすることになった。

 実に画期的なパートナーシップの形態と言えるだろう。

 1978年アルゼンチンW杯の開催期間中にスタートした前身であるジャパンカップは、当初から名の知れたクラブチームが来日した。

 第1回大会で来日した1FCケルンには、日本人プロ第1号の奥寺康彦氏の他にもドイツ代表GKのハラルド・シューマッハーがいた。監督は名将ヘネス・バイスバイラ-だった。

 西ドイツ(当時)から来日したもう1チーム、ボルシア・メンヘングラッドバッハには、バロンドール(欧州最優秀選手賞)を獲得した小柄なデンマーク人FWレネ・シモンセン、元西ドイツ代表のユップ・ハインケスやヘルベルト・ビンマーらがいた。

第1回大会はボルシアMGとパルメイラス両者優勝

 決勝ではボルシアMGとパルメイラス(ブラジル)が激突。延長でも両チーム譲らず、両者優勝となった。欧米を代表するクラブチームが、プロのプライドをかけて全力で対戦する迫力に痺れたものだ。

 翌1979年はイタリア代表のジャンカルロ・アントニオーニ率いるフィオレンティーナと前年のW杯で優勝したアルゼンチンのMFオズワルド・アルディレス、後に清水エスパルスの監督になるスティーブ・ペリマンが所属するトッテナムらが来日した。

 西が丘で開催されたフィオレンティーナとインドネシア代表との試合だったと思う。

 後半途中にアントニオーニが交代でロッカーに引き上げることになり、観客席にいた筆者はピッチに飛び降りてアントニオーニを追いかけ、自分が着ていたシャツにサインをしてもらった。 

 それでも誰に咎められることもなく、牧歌的な時代だった。

1992年大会から国際Aマッチに認定

 キリンカップが大きな変革期を迎えたのが1992年、日本代表監督に初の外国人であるハンス・オフトを迎えた大会だった。

 この大会からそれまで招待していたクラブチームではなく、一国の代表チームを呼ぶようになり、国際Aマッチの大会としてグレードアップした。

 オフト監督の初陣の相手は強豪アルゼンチン。冒頭のバティストゥータ以外にFWクラウディオ・カニージャ、DFオスカル・ルジェリ、GKセルヒオ・ゴイコチェアといった1990年イタリアW杯で準優勝に輝いた錚錚たるメンバーが揃っていた。

 オフト・ジャパンは0-1と健闘する。

 この試合ではオフト監督のマツダ(元J広島)時代の教え子である森保一(現代表監督)、後にサンフレッチェ広島入りする高木琢也氏(元相模原監督)も代表デビューを果たし(高木氏は後半81分に三浦知良と交代で出場)、その後もチームの主力として活躍した。

 6月1日、札幌でのキリンチャレンジカップ・パラグアイ戦を前日に控え、ズーム会見に臨んだ森保監督は、JFAとキリングループとの長期契約を聞いて、「私自身も1992年のキリンカップに出ました。アルゼンチン戦でした」と当時を振り返った。

 そんな長い歴史のあるキリンカップだが、残念なのは昔の映像がほとんど残っていないことだ。 

映像による解説付きのヒストリー本を作りたい

 1993年にスタートしたJリーグの場合、試合の映像権は「Jリーグ映像」が一括管理することが決まっていた。なので30年が経過しても、貴重な映像がしっかりと残っている。

 しかしながら、キリンカップの場合はスタートした当時、たとえ国立競技場で開催された試合であってもテレビ放映されたかどうか、甚だ記憶が定かではない。

 さらに地方の静岡・草薙球技場などで開催されたナイターの場合、照明の関係などもあってテレビ放映が可能だったかどうか、これまた定かではない。

 こういった部分が、2年後の1980年にスタートし、欧州と南米にテレビ中継されたトヨタカップとの違いかも知れない。 

 今もどこかのテレビ局の倉庫に貴重な映像が眠っているとするなら……キリンカップのヒストリー本を映像による解説付きで作りたいと思う。

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