日翔志英忠の紆余曲折、遠回り、挫折…山あり谷ありの壮絶相撲人生
紆余曲折、遠回り、挫折……山あり谷ありの相撲人生を歩み続け、悲願の新入幕を果たした。
幼少期から地元の相撲道場に通い、相撲強豪校として知られる新潟県の能生中に東京から越境留学。3年時に全国中学選手権で個人3位に輝きながら、卒業半年前に地元立川市の中学校に転校した。
「当時は相撲をやめて、中卒で就職を考えていたようです。ただ、才能に加えて実績もあったので、周囲がほっとかない。実兄が埼玉栄相撲部出身という縁もあり、結局、同校に進学して相撲を続けた」(角界関係者)
埼玉栄では同級生の琴桜と共に、団体戦の主力として活躍。卒業後は兄と同じく日大に進学したが、プロ入りの意思はなく、日大卒業後は日大事業部に就職し、相撲部のコーチをしながら実業団で活動していた。
「転機となったのが当時のコロナ禍です。大会が次々に中止となり、稽古すら満足にできない。このままでは不完全燃焼になると思い、退職して追手風部屋に入門した。ところが初土俵から4カ月後に稽古で頚椎を負傷。医者にも『相撲をやめた方がいい』と忠告されたほどの重症で、1カ月以上の寝たきり生活を余儀なくされた。しかもその最中、プロ入りに最後まで反対していた父が、50代の若さで死去。本人も意気消沈し、本気で引退を考えていたそうです」(同)