高畠導宏さんにはとてもお世話になった。絶不調の俺に手を差し伸べてくれた名伯楽
97年、自分にとって致命傷となったのがナゴヤドームへの移転だった。これまで本拠地としてきたナゴヤ球場に比べて格段に広くなり、長打や本塁打が出にくくなった。88年、後楽園球場から東京ドームに移転したシーズンに巨人が中日に12ゲームの大差で優勝を逃したのを見ていたから、なんとなく予想はついたが、高畠さんの支えがあっても、慣れるまでにかなりの時間を要した。
ナゴヤ球場だったら本塁打の当たりも、ドームになるとフェンス直撃のツーベース。「ナゴヤ球場なら入っているのに……」という気持ちが何年も続いた。そして、より遠くへ飛ばさなきゃいけないというプレッシャーが増していくばかりだった。
結局、97年はそれまでで一番試合に出た(130試合)ものの、成績は散々(打率.257、19本塁打、54打点)。本塁打数は前年から20本も減った。俺もひどかったが、大豊泰昭さんも惨憺たる成績(打率.240、12本塁打、35打点)になってしまった。
チームも最下位に転落。広くなったドームの対策として、「打撃のチーム」から「守りのチーム」への転換を迫られることになった。ディフェンスを固めるため、阪神から関川浩一と久慈照嘉をトレードで獲得。代わりに矢野輝弘と大豊さんを放出した。星野監督は俺と大豊さんを天秤にかけ、結果的に俺を残してくれたわけだ。



















