長嶋茂雄と並ぶゴールデンボーイ 悲運の“ムリ・トオル”…わがまま、短気、ゆえに早とちりのバットマン
中日でも典型的な我が道を行く男だった。新人は合宿所に入ることになっていたのだが、堂々とホテル暮らし。2年目の59年に本塁打王と打点王の2冠を獲得したこともあって“中日の顔”となり、打撃では本塁打を狙ってボール球を振っては三振の山を築いた。
指摘されてもホームランにこだわり、「オレのライバルは怪童の中西太(西鉄)だけ」と。そんな言動から、名前をもじって“ムリ・トオル”と呼ばれた。
裏面史に残る波乱の幕開けは中日時代の61年。この年から監督に就任した濃人渉と犬猿の間柄に陥った。
濃人は戦前からの野球人で典型的なたたき上げ。
お坊ちゃん育ちの森と育った環境が違った。シーズンが終わると早大先輩の三原脩が指揮を執る大洋に出された。
悲運の森を巡るドラマの大詰めは65年オフ。森が東京オリオンズに移った直後だった。この年の日本シリーズで敗れた南海の鶴岡一人が辞任。すると、永田雅一(映画会社社長)の東京オリオンズと水野成夫(実業家)のサンケイ・スワローズが鶴岡を奪い合った。11月17日、鶴岡は上京して両オーナーに会ったあと、入団先を発表することになっていたが、この日の未明、南海の後任監督に決まっていた蔭山和夫が急死。鶴岡は上京を中止し、間もなく選手たちの懇願を受けて南海監督に復帰となった。