ハーランドは若き日の釜本邦茂にそっくり 盟友・二村昭雄氏が語る「怪物」の原点
「プロ野球の世界でも活躍したと思います」
「当時の日本はプロ野球がスポーツのダントツ一番人気でした。サッカーは<蹴球>と呼ばれて不人気でしたね。太秦小時代、三角ベースをよくやっていましたが、ガマはとにかくホームランばかりかっ飛ばす。私ではありませんが、ある上級生が『オマエは(利き手ではない)左打席で打て』と言われていました。でも左でもホームランを連発していました。さすがに大谷翔平とは言いませんが、プロ野球の世界でも活躍したと思います」
技巧派タイプのチャンスメーカーだった二村氏は、蜂ヶ岡中時代に何度も何度も釜本氏に絶妙パスを通してゴールをお膳立てした。その関係性は山城高、早稲田大でも続いた。その当時、サッカー界では『もし二村がいなかったら、釜本もあれほど点を決めることはできなかった』といわれたものである。
「阿吽の呼吸としか言いようがないのですが……。ボールをキープしながらガマを見ても、なかなか目が合わないのでパスを出さないでいると局面が変わり、いきなりパッと目が合う瞬間があるんです。そのタイミングでパスを送るとガマはゴールを決めてくれる。パスが欲しいと目が合う。欲しくない時は合わない。そう説明するしかありませんね。まぁ~タイミングの合わないパスが来ても、ガマはよく決めていましたけどね(笑い)」
早大を卒業した二村氏は、日本リーグで最強だった東洋工業(後にマツダ。現サンフレッチェ広島)に入ってサッカーを続けた。
2年目、釜本氏が早大を卒業してヤンマー入りした。ここで二村氏は、初めて釜本氏のことを「強大な敵」として認識することになる。
「味方として頼りになる点取り屋」だった相棒・ガマが「対戦相手の絶対的ストライカー」として立ちはだかったのである。
「DFは全員がガマの威力のあるシュートに怯えていました。試合が終わって風呂に入るとDF陣のお尻、太もも、背中に白黒サッカーボールの五角形の亀甲模様が、ミミズ腫れになって残っていたのです。本当にびっくりしました。攻撃系の選手だった私は、ガマのシュートのエジキになることはありませんでしたが……。ガマ相手に止めて来いと言われたDF陣は本当に大変でした」
日本を代表するストライカーに成長した釜本氏の原点のひとつに「負けず嫌い」がある──。二村氏が、こんなエピソードを教えてくれた。


















