「女たちの沈黙」パット・バーカー著 北村みちよ訳

公開日: 更新日:

「女たちの沈黙」パット・バーカー著 北村みちよ訳

 本書冒頭に、ヨーロッパ文学はすべて戦いから始まった、というフィリップ・ロスの「ヒューマン・ステイン」の一節が引かれている。「ヨーロッパ文学がどのように始まったか知ってるかい?……喧嘩からだ。すべてのヨーロッパ文学は戦いから始まったんだよ」

 ホメロスの「イリアス」はまさにトロイア戦争という戦いを描いた叙事詩だ。ミュケナイ王にしてギリシャ連合軍の総大将アガメムノンは、連合軍随一の英雄アキレウスから、アガメムノンが囲っていた神官アポロンの娘クリュセイスを父親に返すように迫られる。アガメムノンは、それを承諾する代わりにアキレウスの「戦利品」であるリュルネソスの王妃ブリセイスを奪う。本書はこのブリセイスの視点から「イリアス」を語り直したもの。

 10年目に入ったトロイア戦争、ギリシャ連合軍はトロイアの近郊都市リュルネソスを攻め落とし、アキレウスは王妃ブリセイスを戦利品として囲う。奴隷となったブリセイスは、アキレウスの副官パトロクロスの庇護を得ながら自らの境遇を受け入れていく。そこへ飛び込んできたのがアガメムノンの奴隷になれという通告だ。

 一方、アガメムノンの無体な要求に怒ったアキレウスは戦うことを放棄し、ギリシャ軍はトロイア軍に攻め込まれてしまう。アガメムノンはアキレウスを引き戻すために再びブリセイスを返すと提案する……。

 自分をモノのように扱う男たちに対して憤るブリセイスだが、何の力もない彼女には流れに身を任せるしかない。それでも思う。モノではなくひとりの女性に戻ること。それはすべてを危険にさらすに値する貴重なものではないだろうか、と。

 ノーベル文学賞を受賞したアレクシエービチの「戦争は女の顔をしていない」は、女性の戦争体験を描いた優れた作品だが、本書もまた戦争に対して沈黙を強いられた女性たちの声を歴史の奥底から引き上げた秀作だ。 <狸>

(早川書房 3960円)



最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1
    渡辺徹さんの死は美談ばかりではなかった…妻・郁恵さんを苦しめた「不倫と牛飲馬食」

    渡辺徹さんの死は美談ばかりではなかった…妻・郁恵さんを苦しめた「不倫と牛飲馬食」

  2. 2
    国内男子ツアーの惨状招いた「元凶」…虫食い日程、録画放送、低レベルなコース

    国内男子ツアーの惨状招いた「元凶」…虫食い日程、録画放送、低レベルなコース

  3. 3
    試合ガタ減り、選手クーデター未遂…“不毛の8年”で晩節汚した青木功JGTO会長ついに退任

    試合ガタ減り、選手クーデター未遂…“不毛の8年”で晩節汚した青木功JGTO会長ついに退任

  4. 4
    岸田自民は補選「全敗」確定情報…島根1区も水面下で“白旗”揚げちゃった? 党幹部すら諦めモードの末期状態

    岸田自民は補選「全敗」確定情報…島根1区も水面下で“白旗”揚げちゃった? 党幹部すら諦めモードの末期状態

  5. 5
    ソフトB山川穂高を直撃「古巣への不義理、SBファンの拒否反応をどう思っていますか?」

    ソフトB山川穂高を直撃「古巣への不義理、SBファンの拒否反応をどう思っていますか?」

  1. 6
    松本人志に文春と和解の噂も、振り上げた拳は下ろせるか? 告発女性の素性がSNSで暴露され…

    松本人志に文春と和解の噂も、振り上げた拳は下ろせるか? 告発女性の素性がSNSで暴露され…

  2. 7
    「天皇になられる方。誰かが注意しないと…」の声も出る悠仁さまの近況

    「天皇になられる方。誰かが注意しないと…」の声も出る悠仁さまの近況

  3. 8
    「アンメット」の“三瓶先生”にハマる視聴者続出!杉咲花も惚れた若葉竜也「無愛想な魅力」の原点

    「アンメット」の“三瓶先生”にハマる視聴者続出!杉咲花も惚れた若葉竜也「無愛想な魅力」の原点

  4. 9
    長渕剛が誹謗中傷に《具合が悪い》と告白…《話があるなら、来てほしい》と性被害告発の元女優に呼びかけ

    長渕剛が誹謗中傷に《具合が悪い》と告白…《話があるなら、来てほしい》と性被害告発の元女優に呼びかけ

  5. 10
    松本人志“性的トラブル報道”へのコメント 優木まおみが称賛され、指原莉乃が叩かれるワケ

    松本人志“性的トラブル報道”へのコメント 優木まおみが称賛され、指原莉乃が叩かれるワケ