早川いくを(著作家・書籍デザイナー)

公開日: 更新日:

3月×日 幼い息子が「8時だョ! 全員集合」のDVDを見て、爆笑している。這いつくばって手で床をバンバンと叩く息子。この動作は実在したんだ。「バナナの皮で転ぶ人」を実際に見た気分だ。私は写真を撮った。旅行スナップや記念写真より、こういう、日常のちょっとした光景が、大事な意味をもつと最近は思うようになった。ただ過ぎ去るだけの平凡な日々の中に、宝がある気がしたのだ。

 そんなおり、このタイトルを見て、ハッとした。「毎日がこれっきり」(双葉社1540円)。帯には「平凡な日々のなか、抱きしめたいような瞬間が」とある。今の私の心境に、まさにぴったりだ。

 著者は木皿泉さん。数々の傑作ドラマを手がけてこられた人気脚本家のエッセーだ。といっても、そこで描かれるのは、華麗な業界内幕話などではなく、著者のあまりに等身大なお姿だ。日常のさりげない話の中に、人生の滋味が随所に感じられ、読んでいるうちに、ほっこりしたり、じんわりしたりの連続だ。それと同時に、脚本家というのは、なるほどこんな具合に世の中を見ているのか、と感心する。

 その中に「匂いの思い出」という話がある。ダンナさん(「木皿泉」は夫婦ユニットの名前)の匂いの思い出は、ゲタ屋をやっていたおばあちゃんの前掛けだった、というエピソードだ。食べ物や汗のまじった独特の匂いに顔をしかめたのだそうだ。

 匂いは記憶と強くむすびつく。臭覚は、情動を司る大脳辺縁系に直接通じるからだそうだ。私も、包装紙の印刷の匂いを嗅ぐと、子供の頃に寝起きしていた6畳間をリアルに思い出す。それは言語化できない、誰とも共有できない、自分だけの思い出だ。

 このせわしく、ただ流されるだけのような毎日にも、何らかの匂いがあるのだろう。それはいつかきっと自分だけの大切な思い出になるのだ……とか思っていたら、息子がこっちを見て「おならでた」という。やめろ。俺の大脳辺縁系に何をする。こういう思い出はいらない。「これっきり」にしてくれ。

【連載】週間読書日記

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    新生阿部巨人は早くも道険し…「疑問残る」コーチ人事にOBが痛烈批判

  2. 2

    阿部巨人V逸の責任を取るのは二岡ヘッドだけか…杉内投手チーフコーチの手腕にも疑問の声

  3. 3

    阪神「次の二軍監督」候補に挙がる2人の大物OB…人選の大前提は“藤川野球”にマッチすること

  4. 4

    阪神・大山を“逆シリーズ男”にしたソフトバンクの秘策…開幕前から丸裸、ようやく初安打・初打点

  5. 5

    巨人桑田二軍監督の“排除”に「原前監督が動いた説」浮上…事実上のクビは必然だった

  1. 6

    創価学会OB長井秀和氏が明かす芸能人チーム「芸術部」の正体…政界、芸能界で蠢く売れっ子たち

  2. 7

    阪神の日本シリーズ敗退は藤川監督の“自滅”だった…自軍にまで「情報隠し」で選手負担激増の本末転倒

  3. 8

    大谷翔平の来春WBC「二刀流封印」に現実味…ドジャース首脳陣が危機感募らすワールドシリーズの深刻疲労

  4. 9

    大死闘のワールドシリーズにかすむ日本シリーズ「見る気しない」の声続出…日米頂上決戦めぐる彼我の差

  5. 10

    ソフトB柳田悠岐が明かす阪神・佐藤輝明の“最大の武器”…「自分より全然上ですよ」