元ヤクルト宮本慎也さん「野球人生の支えは2つの言葉」…母親が医者に言った一言、同志社大監督からの喝
宮本慎也さん(元ヤクルト内野手、野球解説者、指導者/54歳)
現役時代はヤクルトの名選手として、五輪では代表主将、WBCでは優勝メンバーとして活躍した宮本慎也さん。NHKで野球解説も担当。新刊「プロ視点の野球観戦術」という目からウロコの野球本も上梓した。そんな宮本さんの野球人生にとって決定的な瞬間は──。
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僕にとっての特別な瞬間は2つですね。
親父が少年野球の監督をしていて、小学3年の時から野球を始めました。小6の夏です。ポジションはピッチャー。大会の決勝の当日に38、39度の高熱を出しまして。
そんな時は普通なら休ませるじゃないですか。
■「マウンドで死ねたら、この子は本望」
でも、母親が僕を病院に連れて行き、医師が「この熱で野球をしたら、下手したら死ぬかもしれない」と言っているのに、「マウンドで死ねたら、この子は本望です」と譲らず、解熱剤を打ってもらいました。
僕はなんやわからんまま試合で投げて、結果的に強いチーム相手に優勝することができた。試合の後はまた熱が出て40度くらいになりましたけど。
この時に思ったのは、投げることができるならどんな状態でもやった方がいいということ。プロになってからあの時のことを思えばと、意識はしていなかったけど、自然とできることは可能な限りやるということをやってきましたね。
■骨折しても試合に出場
プロになって骨折しても試合に出ていたことがあります。ヤクルト野村(克也)監督の時代です。入団2年目のこと。デッドボールを受けて痛いのに試合に出ていた。他人にチャンスを与えたくない、自分が出続ければ人にチャンスを与えないと思って必死でした。
ところが、尺骨という大きな骨が折れていたんですね。最後は手の握力がなくなってボールを投げることができなくなった。野村監督にその事情を説明して交代したのですが、病院で調べたら完全骨折とわかって、監督は「根性あるな」と評価してくれました。野村監督はそういう過程、プロセスをとても大切にする方でした。
プロ1年目は守備固めでセカンド、以後はショート、最後はサードにコンバートされたけど、出られるなら何でも出ようと思っていました。
PL学園から同志社大に進んで1年の時に、僕の考え方がすごく変わる出来事がありました。
秋のシーズンでのことです。雨が降ってグラウンドの状態が悪く、監督も来ていなくて自主練習になっていました。それでも4年生は最後のシーズンということで、練習されている先輩がいました。僕らはというと、そのうち雨がやむという予報だったので、やんでからやろうと、上級生とペチャクチャしゃべっていた。それを見ていた技術顧問の先生が「4年生が最後まで一生懸命やっているのに、おまえらはなんで雨宿りして無駄話しているんだ」と怒り出しまして、殴られました。
それを聞いた監督も怒って、僕らは「反省文を書いて提出しろ」と言われました。それで渋々反省文を書いて出したわけです。
それを見た監督は「おまえの文章は言い訳ばっかりや。なんで言われたことを素直に受け入れられない。こんなことではおまえは何回も同じことを繰り返すぞ」とまた怒られた。
それでハッと気がついたんです。そういえばそれまでを振り返っても失敗した時は何かのせいにしていた、自分は悪くないと言っていたと思い当たった。そしてこんなことじゃいかん、素直に失敗したと思えることが大事なことだと考え方が変わりました。それからは目の前に起きたことはすべて自分の責任と考えることができるようになった。これは非常に大きかったと思います。